2008年06月04日
スルメから探る 息子・太郎丸の過去世☆
○ 5月24日(土)



画像は塩ぬきしたスルメをしゃぶる息子・太郎丸・・
ヤァー: 歯茎の鍛錬になるけど 飲み込まないように注意しなきゃな
「おしゃぶり」用とは云え、生後6ヶ月の乳児にスルメを与えるとはこれ如何に!?
事の発端はと申しますと、以前、エラ師匠から 「太郎丸はね-- 」 と、
その 「過去世」 をお話していただいたことからの今回・・
エラ師匠のお話によると太郎丸は過去世において、
「明治時代まで東京の板橋に住んでいた女性でさぁ-- 享年44才」 なのだそうで、
生前、彼女の好物は、イカ天、コロッケ、ふかし芋など・・
で、 「太郎丸に何か食べさせるなら 最初はスルメを与えとくれ」 と、
エラ師匠からことづかっておりました・・
モラ: (スルメは)おしゃぶり用な
ザァ・クォン: いきなり 離乳食にスルメを与えたと
読み手に誤解されてしまうから ホラ
吾輩: はい、離乳食は今月の15日から与え始めました・・
最初は、軟らかく煮て、すり潰した 「もち粟」からでしたけど、
これも師匠方のリクエストでしたね
ケェーシャ: ま-- それは 粘膜の様子を診るために チョィスした
ガァーレム ナァ: その件は-- 話せば長~~く なってしまうから-- 終わろう☆
吾輩: では、話を 「明治時代まで東京の板橋に住んでいた女性」 まで戻します・・
しかし、明治とは「ちょい前」 な範疇でありますね!

ところで、ボクは 「コロッケ」 が気になって調べてみたんですけど・・ アレですね、
「食べもの日本史 総覧」 という文献によりますと、
日本でコロッケが食べられるようになったのは、
「大正末期ごろ」 からみたいです・・
明治時代から、大正時代の移行期は、1912年あたり・・
≪彼女≫が生きていたのはそれ以前ですよね?
で、コロッケが食べはじめられたらしき大正末期と言えば、1920年代です・・
つまり・・
ケェーシャ: つまり-- 何っ
吾輩: 計算が合わねぇええ!!
これ如何にっ!! これ如何にぃいい~~~!!!
ジャア: べ 別にウソついてねえぞ
コロッケが庶民の口に入るようになったのは 確かに 「大正末ごろ」
吾輩: おや? その話を鵜呑みにしますと・・ アレですか、
うちの太郎丸(の過去世の婦人)は、コロッケを先取りできるほど案外・・
お金持ち!? (コロッケはおフランス生まれであります)
キャーン: いや-- そうじゃねぇ 金持ちどころか--
吾輩: 金持ちどころか・・ もしや!?
ヤーパン: そぉおお!!
財閥だったんだぁあああ~~~!!!
(つまり、大金持ちですね)
キャーン: ほら! 財閥だぞ!
もっと調べて分け前を貰えばいいっ! ←(いただけません)
吾輩: へぇ~~、三井、三菱、住友の中のどれかでありますか?
ヤーパン: ん~~~ 「み」という字が入ってるどれか-- だぁああ!!
吾輩: 三井、三菱、住友のどれにも
「み」 が入っておりますぅううう~~~!!!
ジャーフォン: おいっ!! 「日記」 の範疇から逸脱してるぞキミら!!
キャーン: そぉお! 息子自慢の延長にも入りそうだぁああ~~
吾輩: 確かに、、 けど、この日記のタイトルは
「スルメから探る 息子・太郎丸の過去世」 としてますし!!
一同: 訂正せねば--
吾輩: お願いします!
一同: スルメから幕をあける--
コロッケを好んで食べた フランス人と スペイン人ハーフで
駐留財閥令嬢の-- 時空を超えた 「日本にいたくない」っ!!
(日本はヨーロッパに比べて湿気がすごいのでイヤだったようです・・ )
吾輩: ・・・・・
ヤァー: --------
一同: お おあとがよろしいようで--
吾輩: よろしくねぇええ~~!!




画像は塩ぬきしたスルメをしゃぶる息子・太郎丸・・
ヤァー: 歯茎の鍛錬になるけど 飲み込まないように注意しなきゃな
「おしゃぶり」用とは云え、生後6ヶ月の乳児にスルメを与えるとはこれ如何に!?
事の発端はと申しますと、以前、エラ師匠から 「太郎丸はね-- 」 と、
その 「過去世」 をお話していただいたことからの今回・・
エラ師匠のお話によると太郎丸は過去世において、
「明治時代まで東京の板橋に住んでいた女性でさぁ-- 享年44才」 なのだそうで、
生前、彼女の好物は、イカ天、コロッケ、ふかし芋など・・
で、 「太郎丸に何か食べさせるなら 最初はスルメを与えとくれ」 と、
エラ師匠からことづかっておりました・・
モラ: (スルメは)おしゃぶり用な
ザァ・クォン: いきなり 離乳食にスルメを与えたと
読み手に誤解されてしまうから ホラ

吾輩: はい、離乳食は今月の15日から与え始めました・・
最初は、軟らかく煮て、すり潰した 「もち粟」からでしたけど、
これも師匠方のリクエストでしたね
ケェーシャ: ま-- それは 粘膜の様子を診るために チョィスした
ガァーレム ナァ: その件は-- 話せば長~~く なってしまうから-- 終わろう☆
吾輩: では、話を 「明治時代まで東京の板橋に住んでいた女性」 まで戻します・・
しかし、明治とは「ちょい前」 な範疇でありますね!

ところで、ボクは 「コロッケ」 が気になって調べてみたんですけど・・ アレですね、
「食べもの日本史 総覧」 という文献によりますと、
日本でコロッケが食べられるようになったのは、
「大正末期ごろ」 からみたいです・・
明治時代から、大正時代の移行期は、1912年あたり・・
≪彼女≫が生きていたのはそれ以前ですよね?
で、コロッケが食べはじめられたらしき大正末期と言えば、1920年代です・・
つまり・・
ケェーシャ: つまり-- 何っ
吾輩: 計算が合わねぇええ!!
これ如何にっ!! これ如何にぃいい~~~!!!
ジャア: べ 別にウソついてねえぞ
コロッケが庶民の口に入るようになったのは 確かに 「大正末ごろ」
吾輩: おや? その話を鵜呑みにしますと・・ アレですか、
うちの太郎丸(の過去世の婦人)は、コロッケを先取りできるほど案外・・
お金持ち!? (コロッケはおフランス生まれであります)
キャーン: いや-- そうじゃねぇ 金持ちどころか--
吾輩: 金持ちどころか・・ もしや!?
ヤーパン: そぉおお!!
財閥だったんだぁあああ~~~!!!
(つまり、大金持ちですね)
キャーン: ほら! 財閥だぞ!
もっと調べて分け前を貰えばいいっ! ←(いただけません)
吾輩: へぇ~~、三井、三菱、住友の中のどれかでありますか?

ヤーパン: ん~~~ 「み」という字が入ってるどれか-- だぁああ!!
吾輩: 三井、三菱、住友のどれにも
「み」 が入っておりますぅううう~~~!!!
ジャーフォン: おいっ!! 「日記」 の範疇から逸脱してるぞキミら!!
キャーン: そぉお! 息子自慢の延長にも入りそうだぁああ~~
吾輩: 確かに、、 けど、この日記のタイトルは
「スルメから探る 息子・太郎丸の過去世」 としてますし!!
一同: 訂正せねば--
吾輩: お願いします!
一同: スルメから幕をあける--
コロッケを好んで食べた フランス人と スペイン人ハーフで
駐留財閥令嬢の-- 時空を超えた 「日本にいたくない」っ!!
(日本はヨーロッパに比べて湿気がすごいのでイヤだったようです・・ )
吾輩: ・・・・・
ヤァー: --------
一同: お おあとがよろしいようで--
吾輩: よろしくねぇええ~~!!


おまけ☆板橋メモ
【板橋区の特色】
板橋区は、中山道の宿場町として栄えた歴史を持ち、同時に庶民の歴史が残る町でもあります。 都内で有数の工業地帯でありながら、温かみのただよう、近代都市の冷たさを感じさせない町です。
産業: 印刷関連産業や、精密機器をはじめとする機械工場の集積が高く、鉄鋼や化学といった重化学工業から食料品興業まで、多様な業種を持つことが特徴です。
【板橋区の区名の由来】
『延慶本平家物語』という軍記によると、治承4年(1180)に挙兵した源頼朝が、「武蔵国豊島ノ上滝野川ノ板橋」に布陣しています。 ここに地名としての「板橋」が初めて現れ、少なくともこの資料が成立したとみられる鎌倉時代には「板橋」の地名があったことがわかります。
慶長8年(1603)、徳川家康によって江戸に幕府が開かれると、日本橋を起点とする五街道が整備されました。 そのうちの一つ、中山道の第一番目の宿場が「板橋(下板橋)」に置かれ、大都市江戸の出入り口として、また区域周辺の中心的な場として繁栄しました。
地名「板橋」は、明治22年(1889)の町村制実施によって町名として採用され、昭和7年(1932)の東京市板橋区誕生に際しては区名となって、現在へと至っています。
【板橋区の歴史】

原始・古代: 武蔵野台地に人類の生活が始まったのは、約3万年前、この台地の東北端に位置する板橋地方は、石神井川流域や荒川谷の支谷にこの時代の遺跡が多く点在してます。 その中でも茂呂遺跡は旧石器時代を代表する遺跡の一つといわれ、約1万7千年前にさかのぼるといわれます。 そして8千年前には土器文化をもった縄文時代が始まり、3世紀前後に始まった稲作文化として知られる弥生時代から古墳時代の生活が伝わる白子谷、前谷津谷、出井谷などに展開しました。 中央集権国家が誕生する奈良・平安時代でも板橋地方の人々は竪穴住居に住み、稲作を中心とした生活をおくっていたようです。
中世: 1180年、源氏旗揚げの際、頼朝、義経が戸宇久を通過したことが、「義経記」に記載されてます、徳丸・赤塚方面にはこの時代を象徴する立派な仏像も残されており、鎌倉時代から室町時代にかけてこの地方の主権者として威を振るったのは豊島氏、その繁栄は1477年に豊島氏が長尾景春の反乱に加担、上杉家の家臣、太田道灌から石神井川城・平家城を落とされる時まで続きました。
近世: 徳川氏が覇権を握り、1604年に江戸幕府は街道を整備、一里塚や宿場を設けて交通の便をはかりました。 これにより現在の板橋区には平尾・志村の両一里塚が構造され、板橋宿が設けられました。板橋宿は、江戸4宿のひとつとして、江戸へ入る最後の宿場、江戸を出る初めての宿場でもある為、1635年、諸大名の参勤交代も手伝って、かつてない繁栄を見せたようです。
明治・昭和: 明治維新後、板橋は武蔵県所属となりましたが、1869年、大宮県へ、さらに浦和県へと、転属され、1871年、東京府の区域拡張が行われ、初めて東京府に編入となりました。その後北豊島郡が誕生し、下板橋宿に郡役所が設けられて、行政の中心となりました。 しかし、上野~熊谷間の鉄道の開通や、大火による板橋宿の消失により、板橋宿は衰退の道を余儀なくされます。 1887年山手線が開通、板橋駅も開業、そして東上鉄道が開通すると、上板橋、赤羽方面がひらける基となり、昭和7年東京市に編入、はれて板橋区の誕生となりました。 板橋区の工業化の基盤となった陸軍造幣廠、板橋火薬製造所等の工場は、軍国日本と共に歩み、やがて工都として一躍時代の脚光を浴びるようになります。 世界を恐れさせた工業日本の縮図でもありました。 土地入手の容易な点、舟運の利便性、などから危険物を取り扱う軍事工場や爆発性の化学品の製造工場設置に好適の地形と条件を提供していくようになります。
戦後: 地方制度の改革による特別区の誕生から区長の公選、地方自治法の制定、区議会議員の公選と、戦後の地方自治の出発点となった年には、総面積の約60%にあたる区南部が練馬区として分離独立し、埼玉県戸田町の一部約0.2平方キロメートルが当区に編入され舟渡4丁目が誕生。 戦中の軍需中心の板橋区の工業は終戦を境に、近代産業興隆として飛躍します。 都内最大の高層住宅団地「高島平団地」が完成。 この高島平と巣鴨間を結ぶ都営地下鉄6号が開通その後、都営地下鉄三田線に改称され、西高島平と三田を結ぶ一大動脈となり、本格的な板橋区の住宅化が進みました。
(板橋区資料提供)
板橋区は、中山道の宿場町として栄えた歴史を持ち、同時に庶民の歴史が残る町でもあります。 都内で有数の工業地帯でありながら、温かみのただよう、近代都市の冷たさを感じさせない町です。
産業: 印刷関連産業や、精密機器をはじめとする機械工場の集積が高く、鉄鋼や化学といった重化学工業から食料品興業まで、多様な業種を持つことが特徴です。
【板橋区の区名の由来】
『延慶本平家物語』という軍記によると、治承4年(1180)に挙兵した源頼朝が、「武蔵国豊島ノ上滝野川ノ板橋」に布陣しています。 ここに地名としての「板橋」が初めて現れ、少なくともこの資料が成立したとみられる鎌倉時代には「板橋」の地名があったことがわかります。
慶長8年(1603)、徳川家康によって江戸に幕府が開かれると、日本橋を起点とする五街道が整備されました。 そのうちの一つ、中山道の第一番目の宿場が「板橋(下板橋)」に置かれ、大都市江戸の出入り口として、また区域周辺の中心的な場として繁栄しました。
地名「板橋」は、明治22年(1889)の町村制実施によって町名として採用され、昭和7年(1932)の東京市板橋区誕生に際しては区名となって、現在へと至っています。
【板橋区の歴史】

原始・古代: 武蔵野台地に人類の生活が始まったのは、約3万年前、この台地の東北端に位置する板橋地方は、石神井川流域や荒川谷の支谷にこの時代の遺跡が多く点在してます。 その中でも茂呂遺跡は旧石器時代を代表する遺跡の一つといわれ、約1万7千年前にさかのぼるといわれます。 そして8千年前には土器文化をもった縄文時代が始まり、3世紀前後に始まった稲作文化として知られる弥生時代から古墳時代の生活が伝わる白子谷、前谷津谷、出井谷などに展開しました。 中央集権国家が誕生する奈良・平安時代でも板橋地方の人々は竪穴住居に住み、稲作を中心とした生活をおくっていたようです。
中世: 1180年、源氏旗揚げの際、頼朝、義経が戸宇久を通過したことが、「義経記」に記載されてます、徳丸・赤塚方面にはこの時代を象徴する立派な仏像も残されており、鎌倉時代から室町時代にかけてこの地方の主権者として威を振るったのは豊島氏、その繁栄は1477年に豊島氏が長尾景春の反乱に加担、上杉家の家臣、太田道灌から石神井川城・平家城を落とされる時まで続きました。
近世: 徳川氏が覇権を握り、1604年に江戸幕府は街道を整備、一里塚や宿場を設けて交通の便をはかりました。 これにより現在の板橋区には平尾・志村の両一里塚が構造され、板橋宿が設けられました。板橋宿は、江戸4宿のひとつとして、江戸へ入る最後の宿場、江戸を出る初めての宿場でもある為、1635年、諸大名の参勤交代も手伝って、かつてない繁栄を見せたようです。
明治・昭和: 明治維新後、板橋は武蔵県所属となりましたが、1869年、大宮県へ、さらに浦和県へと、転属され、1871年、東京府の区域拡張が行われ、初めて東京府に編入となりました。その後北豊島郡が誕生し、下板橋宿に郡役所が設けられて、行政の中心となりました。 しかし、上野~熊谷間の鉄道の開通や、大火による板橋宿の消失により、板橋宿は衰退の道を余儀なくされます。 1887年山手線が開通、板橋駅も開業、そして東上鉄道が開通すると、上板橋、赤羽方面がひらける基となり、昭和7年東京市に編入、はれて板橋区の誕生となりました。 板橋区の工業化の基盤となった陸軍造幣廠、板橋火薬製造所等の工場は、軍国日本と共に歩み、やがて工都として一躍時代の脚光を浴びるようになります。 世界を恐れさせた工業日本の縮図でもありました。 土地入手の容易な点、舟運の利便性、などから危険物を取り扱う軍事工場や爆発性の化学品の製造工場設置に好適の地形と条件を提供していくようになります。
戦後: 地方制度の改革による特別区の誕生から区長の公選、地方自治法の制定、区議会議員の公選と、戦後の地方自治の出発点となった年には、総面積の約60%にあたる区南部が練馬区として分離独立し、埼玉県戸田町の一部約0.2平方キロメートルが当区に編入され舟渡4丁目が誕生。 戦中の軍需中心の板橋区の工業は終戦を境に、近代産業興隆として飛躍します。 都内最大の高層住宅団地「高島平団地」が完成。 この高島平と巣鴨間を結ぶ都営地下鉄6号が開通その後、都営地下鉄三田線に改称され、西高島平と三田を結ぶ一大動脈となり、本格的な板橋区の住宅化が進みました。
(板橋区資料提供)
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http://junseijah.otemo-yan.net/t85309
この記事へのコメント
めっちゃかわいいやん!
奥様似?
時を経て順生くんたちのところにきたとは
めでたい!
奥様似?
時を経て順生くんたちのところにきたとは
めでたい!
Posted by さえだ☆きりん at 2008年06月04日 21:26
た、たしかに、かわええ!!
この美しい赤様は、ブログで拝見する限り、
奥様似なような!!
末が楽しみですね~~!
今日もオチに(オチたかなあ??)笑わせていただきました。。
この美しい赤様は、ブログで拝見する限り、
奥様似なような!!
末が楽しみですね~~!
今日もオチに(オチたかなあ??)笑わせていただきました。。
Posted by hakka at 2008年06月04日 22:46
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